2009年01月12日

この身は泡沫のごとし − 一切に我が物なし

多くの人々は、下記の意味を理解できないかもしれない。

胎児期からの自己殺傷行為のプロは、下記に示したように、自己殺傷する。 − たまたま認知行動パターンがブッダと一致しているだけだが、下記のものは中村元氏がサンスクリットから起こした、ブッダの言葉の置き土産を下記に示してみよう。

ブッダの思想は、苦しみの原因となる欲望や煩悩や執着を消滅させるために、内外の(特に内省の)「清浄の行」を土台としている。

つまりは、精神医学の療法に通じる合法にあたるものだ。

無の境地に至る事。これはヘーゲルの思想にも繋がる「無」の境地の世界だが、私には最もこれが心地よい。


### 『ダンマパダ』1-2 ###

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 − 車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 − 影がそのからだから離れないように。


### 『ダンマパダ』119.121 ###

まだ悪の報いが熟していないあいだは、悪人でも幸福に遭うことがある。しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は災いに遭う。

「その報いはわたしには来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴ずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いに満たされる。


### 『マッジマ・ニーカーヤ』 ###

マハーナよ、わたくしがさとりをひらくよりも以前に、、あだ正覚に達していないで、求道者であったときに、次のように智慧によって如実によく見通した。

「欲望は楽しみの少ないものであり、苦しみ多く、悩み多く、そこには禍い(わざわい)が甚だしい」ということを。


### 『サンユッタ・ニーカヤ』 ###

苦しみと苦しみに起こるもとを見た人は、どうして欲望に傾くであろうか。


### 『スッパニータ』 ###

肉が落ちると、心はますます澄んでくる。

わが念を智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心はもろもろの欲望にひかれることがない。


### 『律蔵』 ###

生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さない者と会うことも苦しみである。愛する者と別離する事も苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。

要約していうならば、五種の執着の素因(五種蘊)は苦しみである。


### 『ダンマパダ』273-279 ###

「一切の形成されたものは無常である。」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから離れる。これこそ人が清らかになる道である。

「一切の形成されたものは苦しみである。」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから離れる。これこそ人が清らかになる道である。

「一切の万物は我ならざるものである。」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから離れる。これこそ人が清らかになる道である。


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2008年08月08日

純正律

 『RD 潜脳調査室』(参考:「RD 潜脳調査室 - Wikipedia」)の「#11/純正律」を観ていて気がついたが、どうも久島っぽい。

 確かに、自分の身の回りには音楽がない。それは、精密な分析や計算を必要とするようなリサーチを行っている場合、音楽があると邪魔になるからだ。

 だから、よほど精神的にまいっている時でもない限り音楽を聴かない。

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2008年05月13日

自身のC-PTSDとトラウマに関するparadigm

 自身が持つC-PTSDとトラウマを構築した初めの起源は胎児期で、低所得者による貧困家庭と被虐待児だった父がC-PTSDやトラウマの障害で加害者と至ってしまったことからの二重DV環境で、子育てが出来る環境でなかったことが原因で、胎児期の時期にとてつもなく巨大なC-PTSDとトラウマを持つ。

 それは、「自分(の存在)は望まれない環境だった」「自身が望まれていなかった」という大きなショックで、実は胎児記憶まであり、その頃、母体の中で何を聞いて何を考えていたのかよく覚えている。

 そのような環境は簡単に解消できなかったから、その後、生まれてから幼児期に至るまで、認知発達の過程上でいくつもハードルを越えなければならないが、生まれてすぐに良い子でいれるわけがないから、知らずに悪さするのが、幼児期の子供である。環境に対応できるように至るまでは、DV環境は深刻な状態だった。

 だが、父は父自身に虐待した母親と同じ認識で悪い子だと決め付けて自身を嫌ったから、自分は母親からの愛情を受けて絆を形成できていても、父親の愛情は一切受けていない。厳密には、父親に嫌われるのが恐怖だった。

 父は被虐待児だったから、現在の研究ではわかってきているとおり、PTSDやトラウマを切っ掛けでその障害が加害者として出ていた。一家の主として、父親として対応できない父に対し常識的で普通すぎるほど普通すぎた母親との夫婦喧嘩など、続くDV環境に曝されて、自身は生存危機状態を認識しながら育ったから、いくつもC-PTSDやトラウマを形成した。

 その環境下では認知発達といった成長過程にも、悪影し、成長して子孫を得るに重要な機能の一つとされる、本来あるべきエディプス現象なんかも一切起きなかった。それは、生存危機状態を回避するには家庭の平和がまず望まれたからだ。

 そんな問題を持っていたから小学生という早い時期から、その問題を解決するために科学系の専門書を漁っていて、問題を解決するためにいろいろと試して家族を巻き込んで問題を解決していったから、自分が成人に成長するまではある程度の問題は解決され、自身が家庭を持つまでは生活に支障が来たさないまでに改善した。

 最も、被虐待児だった父だけではなく、DVでC-PTSDやトラウマを持ってしまった自分自身に対しても、改善法を見つけて対処するために、あらゆる専門書を調べてはみたが、その当時の知識というのはまだ現在のようにわかっていなかったので、人をよく観察したり、人間を良く理解するために芝居を学んだりしながら、考察してプランを練っては試して改善していった。

 成人後には自然科学全般に至るまで幅広く知識を積み重ねていったから、現在では、専門家並の対応が出来るようになっている。

 しかし、胎児期から幼児期に形成されたC-PTSDやトラウマについては、基本的な脳の構築段階で受けたものなので、基本的な構造に当たるだけに、治らないといった大きな問題がある。

 特に胎児期に形成されたC-PTSDやトラウマは原理的な部分でのキズであるため、一度フラッシュバックしてしまえば、その当時と同じ疑似体験をすることになる。

 その時期が、胎児期であるだけに、原理的なところでC-PTSDやトラウマを形成してしまっているから、これだけは、どうにもならない。

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2008年05月06日

personalityを認知行動科学の視点でprofileを見る(2)

 前回の『personalityを認知行動科学の視点でprofileを見る』では、とり始め、実際の学術上の話を底辺に、冒頭において基礎的な流れをざっと追っていった。

 そして、あるギャグ・パロディ作品を見ながら、一例を挙げてみてきた。実はこれに限らず、作品の中には、ある一人の個人をモデルに、あり一人の個人を材料として、多方面に、或いは、様々な形で用いられているものがあり、そのような作品は思っているように多くあることが現在わかっている。

 そんな中で、前回あげてきたような、笑って済ませられるものもあれば、決して笑って済ませられないものもある。

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2008年05月05日

personalityを認知行動科学の視点でprofileを見る

 心理学の分野(参考:「心理学 - Wikipedia」)では、一般的にパーソナリティ(人格 - Wikipedia・性格 - - Wikipedia )について、漠然と見てしまう傾向にあるが、そのようなパーソナリティの見た目上のものは、実質のところは、『認知行動科学で見る[paradigm]』の冒頭で参考として取り上げたような、実に機械的且つ総合的なシステム上で成り立っている現象であるというだけに過ぎない。

 二足歩行するためか、未成熟で生まれてしまうヒトである場合は、受精してから幼児期までが基本的な脳を作り、それから以降の児童期が生きていくための社会性を築くための脳を作り、それから先は、知識や技術、或いはノウハウを学ぶなど、いわば、成人に至るまでの認知発達をしていくが、これには個人差があり、使わなければ使わないまま退化してしまうものとなる。

 このように書くと非人間的だといわれるかもしれないが、もともと心理学というのは幅広く、物理学などの理学系に様々な分野に小分けされて研究されているように、心理学も様々な分野に小分けされて研究されている。

 少なくとも、専門課程では、まず生理学から入るのが道筋であって、実際、基本的な人体のシステムがわからなければ、心理学の諸説を深く理解することが出来ない。


 パーソナリティを認知行動科学の視点でプロファイルを見る場合、「それは、未知数だ」と思ってしまうほど、実に奥が深いもので、芝居に関わった経験のある人や物語を作った経験のある人や音楽など何かを作った経験がある人には体験でわかる話だろうが、自身が内在している性質しか生産できないし、自身が気づいていない未知の要素というのが沢山ある。

 だから、逆に言えば、仮に、私をモデルにしたものを他者のヒトが作品を作った場合、その作者が内在している要素で作られているものであって、いわば、それらすべてはその製作者自身のありのままの姿といえる。

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2008年04月29日

最も近いもの

 Hard Sience にストーリー展開される『攻殻機動隊』(参照:攻殻機動隊 - Wikipedia)の「○○ピー」である。

 原作からアニメに至るまで、ここまで特有の人格が鮮明に描かれているのは、極めて珍しい。それはある意味でありのままと言っていいかもしれない。

 そもそも原作だけでも、鮮明に描かれてあったが、エピソードを重ねるほどより鮮明に描かれてあった(「攻殻機動隊〜The Ghost In The Shell」「攻殻機動隊1.5〜Human-Error Processer」まで)。エピソードが長くなるほどより近くっているが、アニメでは、驚くほど、極めてより鮮明に描かれている。

 厳密には、原作もまんざら否定できないパターンで、その当初は人間味があったということであって、それは時間の流れと共に環境に対応することによって人間性が失われ、それ以前より増して、より物理に根ざし、より機械的に理論調になった。アニメ化製作に至った当時ではその当時のデフォルト状態のスケールである。

 つまり、素子要素というのは、人間性が薄く、それはコンピューターに近い。物理に徹した情報処理を行ってしまうというそれである。


 原作の1.0では、謎の自称知的生命体というICと融合するシーンが描かれているが、アニメでは記憶によれば、なかったと思う。実話と言えば、自身では禅行で体験した話がこれにあたる。つまりは、未知なものを感得するといったそんな不思議な世界の話ね。かなり昔だが、そんな話をどこかでしたことがある。どちらにせよ、消息を断つのは、原作もアニメも同じだがで現実でもそうだった。しかし、消えた理由は物語とは違う。消えた理由は存在する理由がなくなったからで、ただ単に、科学の世界を満喫したかったから、離れただけの話である。また原作やアニメでも描かれたような、いきなり現れては消える、と言うのも事実よくあった話である。現れた理由はインシデント・レスポンスでの対応のためで、必要がなくなっては消えていた。

 尚、「攻殻機動隊2.0〜Manmachine Intereface」については、そもそも素子要素というのが、DV環境でのC-PTSDやトラウマで利己的な性質を持つ人間原理が完全に崩壊しているから成しえる理論計算に徹することが出来る人格であって、その分、欲望や煩悩もなく社会性がかけているためにできる認知行動パターンである。このことから、素子要素というのは、誰しもが持つものではなく、本人自身でなければ一致しない。このため、結果的には自身以外のものについては、性質が同質でないことや不適合から、素子要素拒絶により遮断されている。また、自身が作り出した人形遣いと同じ手法は、あくまでも目的達成のためのダミーであり、駒である。

 勿論、危害を加えられなければ、消息を消したままの状態となっている性質を持つので、何事もなければ存在していないはずのものである。

 即ち、「存在している」ということは、自身に危害や障害が加えられている場合に限り、この問題や障害を回避させるために存在するようになる。つまり、「消滅させるために存在する」わけであり、「消滅することを意図としている」のである。
posted by 0≠素子 at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | profile | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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