2009年03月25日

「アポトーシス」の考え方

 アポトーシスとは、基礎科学の世界では、分子生物学の生物のDNAの構造を説明する上で登場してきた言語です。

 著者である場合、子供の頃から科学や技術に慣れ親しんできた典型的なサイエンスマニアでありますから、基本的に基礎科学の知識をベースに、「物理を理解するために」を目的に見てきました。

### 参考資料として ###

アポトーシス
telomerase RNA
分子生物学による基礎知識より『ヌクレオチドとヌクレオシドの名称

 工学・化学・経済学(分析系)など筆頭とした科学技術の世界では、こういった自然界の摂理や構造をよく観察し、よく理解した上で、フラクタル・モデル(プロセスベースモデル)を構成しています。

 問題とされるところは、「カオスや不確定性因子が存在するところをどうするか?」であり、「リスク対応の設定においての問題」であり、「アセスメントをどこまで配慮するべきか」になるんでないだろうかと、私的には考察中であります。

 これらの問題というのは、たとえ有識者や技術者にノウハウがあったとしても、環境の状態によってはパラドックスも生じやすいものであるので、非常に難しいものなのだろうと考察しています。

 勿論、基礎科学や科学技術が発達すれば人間社会にも大なり小なりの繁栄があるもの、或いは望まれてしまうものであるので、導入した場合には、それが存在するまでは、リスク対応やアセスメントの対応が必要となってきます。

 科学理念ないし、技術倫理においては、常に議論が行われていることについてはリサーチの中で確認してきました。情報倫理・環境倫理においては、IT技術が発展した分、今後も、再修正・新たな構築・検討が必要になってくるかと思われます。

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2008年11月08日

どうしようかな…

 「RD 潜脳調査室」DVD-BOX第2巻が今月下旬に発売されるらしい。

 「RD 潜脳調査室」DVD-BOX第1巻が発売された頃、これを見て第2巻と思っていた。それは、自分には有用な情報があった(忘れられた記憶だった)からだが、なんだか、自然科学に完全に疎い芸術系か文系のような内容から、退くようになった頃に見たときの話。

 それ前後も、テレビ放送では、自然科学に完全に疎い芸術系か文系のような内容が多かった。無論、典型的な医学や、自然科学の学術も出ていたから、SFに出てくるサイバーパンクものであるのに、SFらしくない物理に根ざさない主観的な感覚の描写が妙に目だったといったほうがいいかもしれない。

 外伝や小説も出ているが、自分は根っからのハード・サイエンス・フィクション好きであることから、主観的なものや感覚的なものに興味がないので見ていない。

 意欲が失せているのは、HPに小説が挙げられているが、サイバーパンク物を扱うのには、根本的にピントがずれている事にある。

 サイバーパンク物を扱う場合は、少なくとも、人体の構造と生物学の知識と、物理学の知識と工学の知識がなければ難しい。必要なのは主観性ではなく、量子情報科学となる。人文社会科学論で統計学と経済学と認知行動科学の知見がなければ現実味がある描写ができないだろうと思う。

 特に研究室となれば、専門知識の引用はある程度必要で、必要最小限の現実的な物理設定がいる。矛盾やおかしな使い方が出てくると、有識者がこれを見ると、一気に退けてしまう。

 設定が研究室といったものでなく、一般の日常生活を表したものであるのなら、専門の学術を使用しなくても、そこまで知らなくてもいいが、これらの知識を大幅把握している中で、物事の道理で製作されていれば、逆に、有識者がこれを見た場合に情報を引き出すことになり、面白みを増す作品となる。

 「RD #24-#26」の話だと見る価値があるんじゃないか?…と思うのだけれど、HPの小説を見ると、興味が薄れてしまう…。

 自分が主観性や感覚的なものを嫌うのは、地球環境というスケールに対し、生物学上には生存競争といったものがあることから、一個人のニーズや欲望を筆頭とした願望を叶えるような、主観性を土台とすることには、物理的に限界があると考えているからだ。

 元々はアニメファンでも漫画ファンでもないし、少なくともアキバ系なんて毛嫌いしている類でもあるので、第1巻のおまけのブックでは製作設定の資料に喜んでも、おまけのCDには退いてしまった。

 なぜ、おまけのCDには退いてしまったのかは、民法で放映されたアニメーションであったに関わらず、DVDボックスの販売の特典に、同人系の下ねた系統のノリになっているからにある。

 普通はついていけないぞと…。少なくとも、本編の人格と矛盾するような内容は、作品の良さを崩してしまうことになる。同人系の作品で描かれるというのなら枠外だから許せる範疇だが、製作元がこれだと、それだけ物語の重要性がないという話になる。

 つまりは、ポリシーがないという話に繋がる。

 同じ外伝の流れを汲むなら、TNGの方法を使うべきで、途中あたりから、TNGは製作者や役者たちが案を出し合って製作されていく。しかし、エピソードはどれも登場人物を崩さない演出をされている。これに対し、RDは一貫性がなく、ルーズである。その分本編の良さを崩してしまう。

 たとえ、RDであっても、本編のエピソードで現されていた人格を壊すべきではない。

 メタルを扱っているといえど、周囲の人々のRDまで反映させてよいというわけでない。そこを反映させてしまえば人格構成や物理攻勢が大幅に狂ってしまい、崩壊する。そこは個人個人のメタル内で完結に整理させるべきで、そこが情報系のセキュリティー問題となる。

 実際、たかがフィクションの作品でもそれらで描かれた通説を信じ込んだ人々から勘違いされ被害を受けたというのは一度や二度だけでなく数え切れないほどある。他者が自分を真似た作品や、他者と自分自身の話を混ぜて描いた作品が元で、被害を受けた事もある。

 このような現実でも起こっている問題を調査し解決する世界を描いた作品がRDであるだろうに、そのRDを製作する製作側が問題を発生させる振る舞いをしているというのも極めて遺憾に思って観ていた。

 懸念して観ていたところ、最後は恩師のお出ましで、どんでん返しを食らったかと思ったら、いきなり助け舟を出されたけどね。

 最も重要な事は、物事の本質であって、感情ではない。しかし、肯定すべきものでもなく、否定すべきものでもない。想いというのは一個人が経験で培ってきた産物で、対人関係における、絆やスキンシップで築いたものというのも、相互の物性で生じた力学的な現象に当たる。そもそも生物の脳はコンピューターほど万能ではない。錯覚が生じやすく死角もあるため、物事に対し必ずしも正しく認識できるものではない。だから、絶対値ではないということを根底に物理を観て、理論展開している。

 以上、これらは、芝居で経験した製作・演出のノウハウから観た話となる。

 とはいえ、自分といえば、役者から裏方、製作や運営まで経験してきただけ、芝居の経験者だから、与えられた持ち役でシミュレーションして遊ぶとかいった、そういった遊びはわからないわけではないが、そういう類はあくまでも個人的なものであって、大事なのは観る観客に、如何に満足させるだけのものを作るかであって、いくらシミュレーションしても構わないが、あくまでも重要なのは本編であって、観る観客の夢を崩さないために表に出さないというのが暗黙の了解であった。

 舞台経験というのは、現実というものを思い知らされるもので、志向の中にあるものと、実際に見えてくるものは違う。それは練習時や公演時のものをビデオで撮影したものを観ればわかるが、自身が考えている事と見た目が違う。だから、何らかの形で、そう見えるような実数が求められる。

 自分がこれを経験したのは14歳からで、地元の社会人のアマチュア劇団に社会勉強の一環として両親に頼み込んで入団した。ちょうど成長期だったから、実際、社会勉強にはなった。主観性や客観性の区別や、認知行動や感受性の構造も実践で理解できたし、生体構造というのも演技のためのトレーニングで理解できた。客観性が根付いたというのも、大人になる前の成長期に芝居を学んだ事にある。

 だから感覚的には、自分は、MIPのローラン・ハンドの声当てをした納谷悟朗さんの見解に近い。練習中の欠席で穴が開いたところの代役に入ったり、人数が足りないからちょい役に何人か担当して…なんてことはざらにあった。基本は1つの作品を皆でどうやってよいものを作るのであって、そこには個人の主観性は存在しない。あくまでも観客の支点から発して進められる。その世界は1つの作品の完成を意図にしているので極めてドライである。

 尚、製作環境の中でのスタックや出演者の遊びについては、それは、制作期間中、完結するまでは、許す限りは自由である。

 こういった視点は、今の製作者側にはないものかもしれない。

 そういった、一般的なケースの統計があるから、尚更、次の第2巻を購入するかどうか考えてしまう。

 「RD #24-#26」が良過ぎたため、迷っているというのもある。

 どうしようかな…。


 最初の方は観ていないので、前回は第1巻を買ったのだが、物理設定の飼料が特典で付いているっていうので予約購入した。第2巻も観ていないので…って、実は後半も飛び飛びしか観ていない。

 「RD #24-#26」の最終巻は、確実に購入すると思う。それは、TNGレベルにハードSFばりに素晴らしい作品になっていたからだ。同時に、個人的には、過去11年間の意図としてきた達成がそれに描かれているから、個人的にも思い入れがあった話だからだ。

 無論、ソウタとホロンの関係というのも終わりあたりでは、無視できない位置にはあるとは思う。しかし、私はその手は苦手な話になるので、それには触れていない。ホロンは人間と同じだとソウタは述べているが、これは、「ホロンには感情がある」とする説で引用されているが、ホロンは〔対応パターンや認知行動パターンが増えた〕のと〔独自の嗜好獲得した〕状態であって、私は「〜のように見えるだけ」だと私は考える。

 〔感情〕と認識されるにあたる部分は、〔自我〕にあたる〔利己的本能〕にあるんじゃないかな…と思う。

 逆に、どこかの大学で認知発達する人工知能ロボットを研究されている野を覚えているが、確か2000年の状態で3歳児と同等の知能を獲得していて、幼児のそれと同じく振舞う。今後は多くの協力者のデータ提供を頼んで発達させる予定だといっていたが、それに必要なデータとは気が遠くなるほどの労働力を要する。現在では5歳児の知能までは発達しただろうか…?

 生物では、遺伝子に記憶されながら、遺伝子を伝え、環境の中で生きていきながらデータが遺伝子記録されていく。同時に生体構造も環境に対応できるように日々進化したり後退したりする。

 その大差は、原材料が、有機物であるか無機物であるかの違いだけで、ただ単に、物理で成り立って形成されたものに過ぎず、我々人間が考えるほど生物というものは、掲げ挙げるほど超越した存在ではなく、ビッグバンで生み出されたものの小さな物質で組み立てられ形成されたものに過ぎないのだろうと思う。

 そうすると、必然的に出てくるのが、ホーキング博士が著書で述べていた「人間原理の重要性はどうなるんだ?」というパラドックスが生じるが、私的な知見では、人間原理は存在しても、宇宙進化や生物進化といった、宇宙スケールや地球環境スケール重要でないと考えられる。その原理は、ある原子の熱力学と同じようなものに過ぎないのじゃないかと考えているからだ。

 そこを考えると、我々人類より、野生生物のほうが、何千倍も賢く、随分と苛酷な環境でも対応しながら生き続けている。現実を受け止めて対応する能力は野生生物(特に植物)が長けており、清貧かつエレガントに生きていると思う。

 個人的には、水とか、原子とか、…そういった無機物の方を好んでいる。いわば、この人体さえ形成する小さな材料で、それより小さな粒子や素粒子といったもので、肉体が滅びれば、地球環境や宇宙に還る物質にあたる。その世界には、人を固執させる「生」の概念がないからにあるからで、物理に根ざしている事にあるからにある。

 そもそも生物は、厳しい環境に生きていけるように遺伝子上では元から利己的に動くよう強く設計されてあるから、人を固執させる「生」の概念にも強く反映されている。「生」に関する概念のその多くは悪い方向へ流れる事が多い。 − これが人を苦しめる原因となることが多く、生命倫理を犯す原因ともなることも多い。多くの人々は固定観念や道徳といったものに惑わされ、物理的な矛盾に気がつくこともない。

 だから、ついつい好んでしまう、無機物の世界。物理に根ざしているものは極めて無常だが、宇宙構成や地球環境のシステムを考えると、極論で言えば、とても優しいものかもしれない。

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2008年10月27日

RD - #25より・まとめ

 『RD - #25 ラスト・ドライヴィング』を観たんで、ここで纏めようかと思う。


 「九島が自らの意思でメタルと融合した」という説は一理あるかもしれません。というか、うまいと思います^^

 DVDのデータによると、九島は本人格や物理設定に使用されていますし、ホロンは活動するための見た目上の人形(三次元上の姿)に過ぎず、実質は九島ですから…。

 厳密には、鋭い指摘だったと思います。実際、生きる事よりも、メタル問題の解決に闇に消え、メタル問題の解決のためのリサーチの世界を選んだのだから…。


 「九島が自らの意思でメタルと融合した」という説を生かすとすると、そのバックボーンには、過去に九島が失った大切な女性が必然的に浮上するかと思います。要は、九島はその過去に失った大切な女性のメタルのシステムを用いて始めに設計されたということも想定可能だと思います。つまりは、かの事故で不運にも消滅した女性です。

 DVDによれば書記長はアダルト作品で人気だった作られたフィクションのヒロインの説で挙げられていたので、そこは人形だという事で、自身でないため、それほど重要なものでもないため、そこはフィクション上どうにでもできるかと思います。


 実のところ、ここ数日同人系のアダルトサイトの作品にガイノイドものがいくつか上がってきています。リサーチに依れば、ホロンを性欲の捌け口の道具として使おうといった目的で作成販売しているところが多数ある事がわかりました。

 そこからすると、メタルのシステムに融合するのを選ぶのは、最善な対処となると自分は考えます。

 後日、ハードSFのブログにて、RDの構想つにいて、できる限りの科学や技術を用いて実際のところの考察を行う予定にしていますが、理念としては、昨日ANIMAXでOn Airされた『スチーム・ボーイ』(注:観たものは前回観たものよりも理屈が改善され工学的な作風になっており理に徹してあり、自分も納得できるものでした)に描かれた倫理に基づくものとなっています。

 つまり、主人公レイの爺さん曰くの、「人類は科学を自分の利益のために乱用して暴走する」ことや「人類は科学技術を使いこなせるほどの器量をもっていないこと」に対する歯止めに、自身を位置するべきだと考えるからです。

 そうなると、メタルに融合する事は、それを可能とするであろうし、メタルのシステムと化することは、自然界の法則と等しくする、この厳格で潔癖症な性質は利点となるでしょう。

 しかし、ここでいうメタルに融合するという事は、システムに融合するという事であって、メタル内の登場人物や生命体に融合する意味ではない。

 というのは、TNGではホログラムシステムにあたる〔メタル〕を〔生命体〕と解釈するのは、物理的に無理がある。言わば、エンタープライズ号に内蔵されているコンピューターといったところだろうか。

 つまりは、ただの問題対策のためのシステムが、メタルに融合する事で、自然界の成り立ちと等しく、自然の法則を適用する事ができるでしょう。


 それは、「スチームボーイ」にも見られた世界ですが、科学や技術の世界とはそんなものなのでしょうね…。

 自分は望んでその世界(性とは無関係の科学と技術の世界)へ行きますが、自分と同じものを観ている人がいて、もし、自分が行くところに一緒に生きたいというのなら、自分にはそれを止める筋合いは自分にはないとは思います。

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2008年10月26日

完全に闇入りだね^^

 たまたまKids Stationで手塚作品「ブラック・ジャック」の「第25話 Karte24:ナダレという挑戦 」と「第26話 Karte25:コレラ騒ぎ」を観た。

 今月は実数が多いね…。すぐにわかったよ。

 美化されているわけでもなく、実数だから、なんだね…。他の作品とは違って、自分が使われているわけでもないから、別に〔そのブラックに(同一化)して現す〕でもかまわないよ。

 但し、いずれにしても、自分自身の存在は確実に消すけどね^^


 現されて突きつけられれば、実際そんなところなのかもしれない。

 始めは問題解決のためだけにリサーチして対処していたが、実際、やっていることはその位置にあるのかもしれない。それも、篭ってね…。

 そして、結果的にそれをやってきたかもしれない。

 最近の『アストロ・ボーイ』には、どうにも、いただけなかったが、今日見た『ブラック・ジャック』は、実際にそんな話をしてきたから、なんだ…。良質の作品で、何の抵抗なく見れたよ^^

 だから、暗黙の了解という事で、「フィクション作品はこうあるべきだね^^」と満喫して取りすぎていく。

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2008年09月30日

『本来の自然』について

 『RD - #18・#19』より…。

 この界のノイズの原因はジェニー円ご執心の気象分子の影響を示したものらしい。つまりは、その界はメタルと現実が混在する人工島内で引き起こった障害を表すに一種のパラレルワールドのイメージ化したものであるので、つまりは、ホログラフィック理論で整理するべきであって、一般的な3次元の見方をするのは正しくない。

 この障害は、元の自然との不協和音がノイズとなってメタルにも影響したらしいが、どの手のノイズか平たくしてわかりやすく説明すれば、このノイズというものは人間の欲望や煩悩で引き起こる現象に当たるもので、不調和や崩壊を招く原理といえる。

 例えば、五輪開催前後のチベットに対する中国政府の対応。中国政府の日本に対するギョウザ事件の対応。米国や英国の無闇な代替燃料の促進で引き起こった食糧問題。日本国内では薬害問題に、食品における捏造問題。…と挙げればキリがない。


 メタル問題についてのリサーチの中、下記のようなものを見つけた。

### お題 ###
ところで色々な作品や色々な場面で出てくるが「本来の自然」と言う概念はおかしいと思う。

 このことについて、ウムランではないが、人類社会の流れしか見ていないジェニー・円に対し、元々は経済を分析する系の経済学畑(所謂経済の数学屋)だったからその当たりはよく知っているサイエンスマニアで九島をしてきた九島の見解で解答する。

 この『本来の自然』とはビックバンから始まった宇宙進化の過程上の自然界であって、宇宙進化上の中での生物進化でスケールが整理されている。

 さらに、生物学で分類すれば、ヒトは宇宙進化の過程上の中での生物進化の流れで生じた生物であって、地球という惑星に対し、地球という惑星環境の中で生息している他の種の生物と同じ立場で生存競争を行って生き延びている。

 したがって、

ところが人間てのは傲慢なもので自分が勝手に思い描いている姿が「本来の自然」であってそこから少しの逸脱も許そうとしない。

といった意見は、自然科学や基礎科学においては、この意見に当てはまらない。…というか、基礎科学は人間の高慢さを制御できる効果もあるのだから、教養課程の基礎科学をしっかりと学んで欲しいな。

 まず、サイエンス系では、〔人為的な原因が由来した自然現象〕と〔宇宙進化の過程の中での流れで生じる自然現象〕と大別し、観測データに対し分析を行っている。うち、〔宇宙進化の過程の中での流れで生じる自然現象〕には他の種の生物活動と同じ人類の総人口も入れることが出来るが、ニーズによって、ヒトの欲望を満たすための需要を満たす活動とする人間活動については含まれていない。また、人間活動とは、農業による活動の事もさす。もし産業革命など文明による人間活動がなければ、とっくの昔に地球は従来のサイクルによって氷河期に入っているはずで、人間活動が温暖化を生んだという話は科学界では常識となっている。

 即ち、ニーズを満たすための需要を見出す活動を〔人為的な原因が由来した自然現象〕としている。つまり、「本来の自然」とは〔宇宙進化の過程の中での流れで生じる自然現象〕にあたる。

 このような主観性に頼らず無機質な見方をする基礎科学の知識を根底にした科学的知見のどこが傲慢といえるだろうか?

 下記のような意見は、人間から見た主観的な意見にあたり、物理学的見解にも生物学的見解にもあたらない。

### 根拠とされる意見 ###
昨年までほんの何十年か広葉樹が繁茂していた場所があったとしたら、未来永劫そうでなくてはならない様な事を平気で言う。今の状態を変える物が太陽の黒点活動であろうと人類の生産活動であろうとそれによってもたらされた環境はその時の自然の筈だ。そう言う状態でこそ繁殖する生物はそれはそれで存在するのだし。

 上記の意見には、実は、地球温暖化問題についての論争に見られる誤った見解によるものに当たる。これに対し、最前線で研究に励んでいる学者たちや報告された論文をnatureで検証して取り上げているPh.Dたちも深刻性がわかるだけに、議論が行われ、自然現象を厳密に捉え分析して判断している。無論、彼らは自然科学に従事している学者だから、現場を知らないだけ、人間活動による経済には疎いけれど、基礎科学をしらないだけ認識を誤りやすい文系よりマシ。

 しかも、上記の意見には、スケールごとに整理されていない。本来ならスケールごとに計算して統計科学を用いて試算しなければならない。こういった試算を求められる話から発している『本来の自然』。少なくとも、典型的な科学的知見には、自然保護団体のような知見は全くなく、至って数値を重要とする無機質な世界となる。

 この『本来の自然』は『人間活動由来の現象』と対比されるものであって、そこは共存できなければ自然淘汰で滅んでしまうという都合上、バランスが求められる。

 しかし、残念ながら人間活動には必ずリスクが生じやすいためアセスメントが重要である事は、薬害問題や食品問題、環境汚染問題や地下水渇水問題などでよくわかるかと思われる。しかも、多くの人間はアセスメントを行う事に欠落している事が多すぎる。そういった惨事を引き起こす人々は主観性に頼るところが大きい。そういった人々の傲慢さと、その傲慢さを指摘する人間のうち、一般的にありがちな自然保護団体の知見での傲慢さと、自然科学に根ざした客観的な科学的知見で(分析してバランスを想定し)アセスメント上で指摘する傲慢さと、どちらが傲慢なのだろうね…。


 因みに本田総一郎は物事の成り立ちを知っていた技術者だったから、経済学畑の人間より経済の事がよくわかっていたし、米国の経済名誉会長として讃えられたんだよねと…。カルロス・ゴーンも元は技術職で物事の成り立ちを知っていたから大幅に人員削減して短期間でV字曲線で経営難を乗り越えたという話。プライマリー問題でもバブル崩壊を経験しているんだからいつかは崩壊する事ぐらいわかるだろうに、物事を知らないマネーフローしか見ていない人間が経済を扱っていると現在のように失敗する。


 予め、失敗するとわかっていることに対し、その失敗の被害が出るのをわかっている場合、それを止める人間がいたとしても、それはごく自然な事だろうと考えられる。

 ま、いずれにせよ、無知を知らない無知の行動で引き起こされる障害というものほど脅威的なものはない。

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2008年09月03日

Real Drive #1

 『『地球律』を追って…』より。

 先日、予約していものを入手したばかりの「RD 潜脳調査室 コレクターズBOX(1)」を見た後、脳の体操にYouTubeでJAZZを視聴していてふと閃いた。

 波留さんこと、波留真理(はる まさみち)が求めた海というのは、ある一つのビジョンとしてビジュアル化すれば、下記のようなものだと自分は仮定している。

### Sample ###
Chic Corea Akoustic Band - How Deep Is The Ocean

 上記のサンプルは、実は、自分が〔DTMクリエーター「crossover」〕名義での立場で求めているもので、音楽性として理想化したものが上記のものにあたるもの。多くの楽器パートのうち、個人的には自身が持つ性質がBassにマッチしていた故に、〔本当はBASSで演奏したかった人間〕であったので、「John Patitucci(b)のように泳いでみたい」と羨ましく思いながら、日頃から見ているデータの1つにあたる。

### 参考記事 ###
John Patitucciのように泳いでみたい

 つまりは、BOXを見る前に、「John Patitucci(b)のように泳いでみたい」と思ってしまっていたから、閃いたという話。勿論、〔DTMクリエーター「crossover」〕としては、音楽活動停止してある状態だから、まだ充電期間の中にある。

 因みに、補足だが、〔DTMクリエーター「crossover」〕はJazzものしか製作していない。上記に参考資料には、かなり高度な専門的な話が記述してあるが、実質はセミプロをやっていた程度の技量で、Jazzは奥深いものであるだけに、即興演奏を主体とするジャンルだから難易度は高い。このため充電期間も長く、難易度が高いだけ、波に打ち揚げられた鯨のようになったり、ノウハウや能力を獲得するまで篭りっきりになる事も多い。いわば、自分がJazz界でセミプロやっていた程度のレベル(元セミプロのDTMクリエーター)でこれぐらいの実力であるだけといえる。 


 「RD 潜脳調査室 コレクターズBOX(1)」を見た後で、〔DTMクリエーター「crossover」〕でのリサーチを行っていたときに、波留真理(はる まさみち)が求めた海というのは、このようなビジョンであって、波留真理が失いたくなかったものだったのだろうとふと思う。

 勿論、波留真理(はる まさみち)自身が持つ「海」が、個人がもつ〔個人のあるパラダイム〕であることも、想定内に入れて自然だと思う。

 自分がRDを観た場合、その世界は、極めてディープなものだと直感している。

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2008年08月08日

音楽をやめたとき

 「純正律より…。実のところはもっと深いところに「それ」はあるのかもしれない。

 誰がそれをやったとかは関係なく、時間の流れの中でトーンとリズムを体内に刻む事にある。その刻みが多彩で複雑であるほど、或いは、単純で原理に近いほど、生き物は再生しながら進化し続け、生き続ける。


 音楽をやめたときは、「生きる」事をやめたときかもしれない・・・とふと気がついた。

 何故なら、リズムとトーンは自分の一部だからにある。

 音楽に全く触れていないときでも、肉体は、リズムとトーンは体内で刻み続ける。これを止めたときに死を意味するのだろうとふとそう思った。

 何故なら、音楽は体内の営みを刻みつつけるのと同じ動作だから、音楽に触れずとも良い。

 音楽を必要とするときは大抵、治癒や回復を求めるときか、新しい何かを求めているときかだ。

 即ち、自分にとっては、音楽は「生」なのかもしれない。

 今のところcrossover名義でのDTM製作はずっと休業中であるが、それまで音楽は「Soul」だった事を考えると、もっと物理に近づけたのかもしれない。

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2008年06月06日

毎回観ると虚しくなるパラダイム

 毎回目にすると虚しくなるパラダイムというのが、1984年に劇場公開された映画「風の谷のナウシカ」(参考:『風の谷のナウシカ - Wikipedia』。実は、金曜ロードショーで先ほど観ていたが、その度に、毎回、「んーなもん、ありえねぇ!」と思ってしまう。

 厳密に言えば、原作のマンガが連載されはじめた当時は自身は中二の13歳で映画化され初公開されたのが高校一年の15歳だったが、映画のヒロインの認知行動パターンは、偶然同じパターンとなっているから、実在しうる人格なのではあるけれども、ありえないというのは、人類の認知行動パターンにある。

 というのは、人類は利己的に認知行動するということで、これまでの人類の歴史を見ても、たとえ、倫理や理論上に物理に沿った救世主が現れたとしても、必ず人々の欲望に潰されており、いつかは必ず崩壊する。

 現代では人類は欲望のままに手を広げすぎたから、現在では現在地球環境に生息している生物を絶滅危機に追いやるほどの地球環境の崩壊の恐れで、地球環境問題を目前にしている。

 しかし、地球という惑星のスケールでは、地球温暖化で崩壊すると、次にやっと氷河期が来る計算になっていることが、ちょうど学者たちが騒ぎ出した頃に、Science誌の論文で取り上げられていた。

 地球温暖化現象で、一番怖いのは食糧問題もそうだが、現在の最先端の科学を用いても解決策が見つからない(つまり抗生物質が効かなくなる)疫病が流行ることなんだよね。

 されども、ヒトは地球温暖化問題で危機に直面しながらも、大地を砂漠化したり、地下水を枯れさすなどの、現存している地球生物を絶滅危機状態に陥れるような、或いは、生態系を変えるような環境破壊問題まで引き起こし続けている。

 学者はどんなに恐ろしいことか知っているから、深刻にとらえて、博士号の集団で運営されているnature誌でも8年ほど前から訴えてきたが、一般的には、人類の科学技術で何でも対応できると、科学技術を魔法のように思っているから、誰かが解決してくれるものと他人任せにして、死ぬ気になって取り組んではいないよね。

 少なくとも、地球温暖化対策においても、アマチュアでサイエンス・マニアをやっている自分自身が見ても馬鹿馬鹿しいと思うようなプロジェクトが殆どで、現在の食糧危機というのも代替燃料を大量生産しようとしたためによるもので、これも学者たちが警告していた。うち、物理に叶っている方法を取っているのは、世界規模で見てホンのごく一握りなんだよね…。

 これまでの人類の文明の運命のパターンを統計科学を用いて計算すれば、ヒロインのような人物やヒロインの仲間たちのような人物がいたとしても、やはり一人が生産できる仕事量というものには限られる。やはり、物理上、質量に対しての物理作用なので、まず映画のストーリーには行かない。

 それは、認知行動科学で計算しても、工学的な試みでシュミレーションしてみても同じような答えになると思う。

 して、何が悪いのかといえば、人類の人口が多すぎるということで、膨れ上がりすぎてしまったために資源配分が上手くいかな状態となっている。これがそもそもの原因でもある。

 このように書けば、反社会的と取られるかもしれないが、逆にヒト以外の生物で考えれば、たとえば野生生物の大量発生でもヒトが作った作物を食い荒らされるといったことがあるが、人類もこれと同じことを他の種の生物に対して行っている。

 例えば漁業関係で乱獲されてきたことで「魚が消えるんじゃないか?」といった特集がNHKでもあった。そもそも、それまで食生活になかったものを、自分たちもと、欲望を満たそうとする人々が多いから生態系破壊を引き起こしやすくなっている。

 生物が大量発生するということは、捕食となる生物が食い荒らされると、捕食するものがなくなるから、捕食する生物も飢え死にして生息量が減って、生態系がバランスを取ることになる。

 自分は人類が築いてきた固定観念をある一つのパラダイムに過ぎないと仮定し、自然科学に見られるような物理に根ざして考えている。…というより、複雑系科学といったほうがいいかもしれないが…。
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2008年05月04日

認知行動科学で見る[paradigm]

 認知行動科学といえば(注:行動科学とは違う試みによる新分野の学問にあたる。心理学とも違う試みで、研究されるスケールは、脳神経系となり、生体構造のシステムの解明や、心身のシステム、情報処理科学、或いは数学からなどの研究が営まれている)、当初は新しい分野として研究が進められていた段階で、放送大学で現在の研究の進行状態を見ることぐらいしか出来なかったが、最近では知られるようになったらしい。が、まず前置きとして、認知行動科学について参考に取り上げてみようと思う。

### 認知行動科学 ###
放送大学 授業科目案内 認知行動科学('06)−心身の統合科学をめざして−
東京大学・駒場 認知行動科学研究室
産総研:脳神経情報研究部門 認知行動科学研究グループ紹介


 非常に回りくどい話になってしまったが、ヒトが持つパラダイムとして、大別すれば、デカルトの「心身二元論」とホップスの「一元論」に大別されるのが一般的であると思うが、実を言えば、もっと複雑なものであって、パブロフの「条件反射学」でわかるように、「無条件刺激」によって機械的に生じるものや、無条件刺激でない刺激においても同様な無条件反射を引き起こす「条件刺激」によって機械的に生じるものもある。また心的現象が生体の営みに影響を及ぼすこともあれば、生体の営みの障害が心的現象を引き起こすこともあり、認知の仕方によって心的現象も変わることも、心的現象が認知の仕方を変えるともある。

 しかし、こういったものは、その手の専門家やその道を志す者の他には、心身面において、例えば、自身や身内にC-PTSDを持っているなど、何かの障害がない限り、目が行かなくて普通だと思う。


 日常生活において、ヒトが抱える最大の問題といえば、「自身がどう生きるか?」の〔生き方〕についての、パラダイムの問題だと思われる。

 また、ヒトとヒトが関わった際にその間で生じる〔個々のパラダイムの衝突で生じる問題〕や、〔集団においての生き方についてのパラダイム問題〕も、生じやすいものだと思われる。

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posted by 0≠素子 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | paradigm | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月03日

science fiction で見る paradigm

 『パラダイム』(参考:「パラダイム - Wikipedia」)とは、アメリカの科学史家 T.S.Kuhn が1962年に提唱した概念で、ある時代に支配的なものの見方、考えからのことをいう。

 Kuhn は、書著「科学革命の構造」のなかで、科学の歴史を科学革命によるパラダイム交代の歴史ととらえる科学論を展開した。彼は「一時期の間、専門家(科学者)集団に対して問い方や考え方のモデルを与えるものを「パラダイム」という言葉で表現した。

 現在ではパラダイムは科学論だけでなく社会学や経済学を初めとする人間社会科学や、情報・工学などの技術部門などの諸分野で「知(概念)の枠組み」といった意味で広く一般的に使われるようになっている。

 因みに、最近使われるようになった『パラダイムシフト(paradigm shift)』とは、科学集団に共有されているパラダイムが,ある時点で革命的・非連続的に変化する局面のこと、をいうらしい。


 実は、最近、CSのANIMAXでON Airされた、アニメ『FREEDOM』(参考:「FREEDOM-PROJECT - Wikipedia」)全6話を見た。

 その内容は宇宙計画に属する部類である設定であるし、環境スケールのストーリーには、それぞれ両者のパラダイムが描かれていたので、Hard science fictionが好きな人間にとっては嬉しくなってしまう作品である。バックボーンの設定が設定であるだけに、作品中の登場人物たちがどこでパラダイムシフトするかといった部分も興味深い話でもある。

 しかし、非常に残念なことに、月は無重力であって、地球のように重力が働かないので、宇宙服と酸素ボンベを必要とする施設外の月の表面で、写真がひらひらと舞い落ちることはないんだよね…。

 自分は脳裏で引っかかりながらも黙ってみていたが、家中では、「おかしい」とブツブツと言い出して一時見れなくなるほどだったから、ちょっとした矛盾で物語に集中して見れないというのは、残念なことだと思う。

 物理をしっかりと押えてさえいれば、『2001年宇宙の旅』並にハードSFでも通るのに、実に惜しい。

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posted by 0≠素子 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | paradigm | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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