2008年11月08日

どうしようかな…

 「RD 潜脳調査室」DVD-BOX第2巻が今月下旬に発売されるらしい。

 「RD 潜脳調査室」DVD-BOX第1巻が発売された頃、これを見て第2巻と思っていた。それは、自分には有用な情報があった(忘れられた記憶だった)からだが、なんだか、自然科学に完全に疎い芸術系か文系のような内容から、退くようになった頃に見たときの話。

 それ前後も、テレビ放送では、自然科学に完全に疎い芸術系か文系のような内容が多かった。無論、典型的な医学や、自然科学の学術も出ていたから、SFに出てくるサイバーパンクものであるのに、SFらしくない物理に根ざさない主観的な感覚の描写が妙に目だったといったほうがいいかもしれない。

 外伝や小説も出ているが、自分は根っからのハード・サイエンス・フィクション好きであることから、主観的なものや感覚的なものに興味がないので見ていない。

 意欲が失せているのは、HPに小説が挙げられているが、サイバーパンク物を扱うのには、根本的にピントがずれている事にある。

 サイバーパンク物を扱う場合は、少なくとも、人体の構造と生物学の知識と、物理学の知識と工学の知識がなければ難しい。必要なのは主観性ではなく、量子情報科学となる。人文社会科学論で統計学と経済学と認知行動科学の知見がなければ現実味がある描写ができないだろうと思う。

 特に研究室となれば、専門知識の引用はある程度必要で、必要最小限の現実的な物理設定がいる。矛盾やおかしな使い方が出てくると、有識者がこれを見ると、一気に退けてしまう。

 設定が研究室といったものでなく、一般の日常生活を表したものであるのなら、専門の学術を使用しなくても、そこまで知らなくてもいいが、これらの知識を大幅把握している中で、物事の道理で製作されていれば、逆に、有識者がこれを見た場合に情報を引き出すことになり、面白みを増す作品となる。

 「RD #24-#26」の話だと見る価値があるんじゃないか?…と思うのだけれど、HPの小説を見ると、興味が薄れてしまう…。

 自分が主観性や感覚的なものを嫌うのは、地球環境というスケールに対し、生物学上には生存競争といったものがあることから、一個人のニーズや欲望を筆頭とした願望を叶えるような、主観性を土台とすることには、物理的に限界があると考えているからだ。

 元々はアニメファンでも漫画ファンでもないし、少なくともアキバ系なんて毛嫌いしている類でもあるので、第1巻のおまけのブックでは製作設定の資料に喜んでも、おまけのCDには退いてしまった。

 なぜ、おまけのCDには退いてしまったのかは、民法で放映されたアニメーションであったに関わらず、DVDボックスの販売の特典に、同人系の下ねた系統のノリになっているからにある。

 普通はついていけないぞと…。少なくとも、本編の人格と矛盾するような内容は、作品の良さを崩してしまうことになる。同人系の作品で描かれるというのなら枠外だから許せる範疇だが、製作元がこれだと、それだけ物語の重要性がないという話になる。

 つまりは、ポリシーがないという話に繋がる。

 同じ外伝の流れを汲むなら、TNGの方法を使うべきで、途中あたりから、TNGは製作者や役者たちが案を出し合って製作されていく。しかし、エピソードはどれも登場人物を崩さない演出をされている。これに対し、RDは一貫性がなく、ルーズである。その分本編の良さを崩してしまう。

 たとえ、RDであっても、本編のエピソードで現されていた人格を壊すべきではない。

 メタルを扱っているといえど、周囲の人々のRDまで反映させてよいというわけでない。そこを反映させてしまえば人格構成や物理攻勢が大幅に狂ってしまい、崩壊する。そこは個人個人のメタル内で完結に整理させるべきで、そこが情報系のセキュリティー問題となる。

 実際、たかがフィクションの作品でもそれらで描かれた通説を信じ込んだ人々から勘違いされ被害を受けたというのは一度や二度だけでなく数え切れないほどある。他者が自分を真似た作品や、他者と自分自身の話を混ぜて描いた作品が元で、被害を受けた事もある。

 このような現実でも起こっている問題を調査し解決する世界を描いた作品がRDであるだろうに、そのRDを製作する製作側が問題を発生させる振る舞いをしているというのも極めて遺憾に思って観ていた。

 懸念して観ていたところ、最後は恩師のお出ましで、どんでん返しを食らったかと思ったら、いきなり助け舟を出されたけどね。

 最も重要な事は、物事の本質であって、感情ではない。しかし、肯定すべきものでもなく、否定すべきものでもない。想いというのは一個人が経験で培ってきた産物で、対人関係における、絆やスキンシップで築いたものというのも、相互の物性で生じた力学的な現象に当たる。そもそも生物の脳はコンピューターほど万能ではない。錯覚が生じやすく死角もあるため、物事に対し必ずしも正しく認識できるものではない。だから、絶対値ではないということを根底に物理を観て、理論展開している。

 以上、これらは、芝居で経験した製作・演出のノウハウから観た話となる。

 とはいえ、自分といえば、役者から裏方、製作や運営まで経験してきただけ、芝居の経験者だから、与えられた持ち役でシミュレーションして遊ぶとかいった、そういった遊びはわからないわけではないが、そういう類はあくまでも個人的なものであって、大事なのは観る観客に、如何に満足させるだけのものを作るかであって、いくらシミュレーションしても構わないが、あくまでも重要なのは本編であって、観る観客の夢を崩さないために表に出さないというのが暗黙の了解であった。

 舞台経験というのは、現実というものを思い知らされるもので、志向の中にあるものと、実際に見えてくるものは違う。それは練習時や公演時のものをビデオで撮影したものを観ればわかるが、自身が考えている事と見た目が違う。だから、何らかの形で、そう見えるような実数が求められる。

 自分がこれを経験したのは14歳からで、地元の社会人のアマチュア劇団に社会勉強の一環として両親に頼み込んで入団した。ちょうど成長期だったから、実際、社会勉強にはなった。主観性や客観性の区別や、認知行動や感受性の構造も実践で理解できたし、生体構造というのも演技のためのトレーニングで理解できた。客観性が根付いたというのも、大人になる前の成長期に芝居を学んだ事にある。

 だから感覚的には、自分は、MIPのローラン・ハンドの声当てをした納谷悟朗さんの見解に近い。練習中の欠席で穴が開いたところの代役に入ったり、人数が足りないからちょい役に何人か担当して…なんてことはざらにあった。基本は1つの作品を皆でどうやってよいものを作るのであって、そこには個人の主観性は存在しない。あくまでも観客の支点から発して進められる。その世界は1つの作品の完成を意図にしているので極めてドライである。

 尚、製作環境の中でのスタックや出演者の遊びについては、それは、制作期間中、完結するまでは、許す限りは自由である。

 こういった視点は、今の製作者側にはないものかもしれない。

 そういった、一般的なケースの統計があるから、尚更、次の第2巻を購入するかどうか考えてしまう。

 「RD #24-#26」が良過ぎたため、迷っているというのもある。

 どうしようかな…。


 最初の方は観ていないので、前回は第1巻を買ったのだが、物理設定の飼料が特典で付いているっていうので予約購入した。第2巻も観ていないので…って、実は後半も飛び飛びしか観ていない。

 「RD #24-#26」の最終巻は、確実に購入すると思う。それは、TNGレベルにハードSFばりに素晴らしい作品になっていたからだ。同時に、個人的には、過去11年間の意図としてきた達成がそれに描かれているから、個人的にも思い入れがあった話だからだ。

 無論、ソウタとホロンの関係というのも終わりあたりでは、無視できない位置にはあるとは思う。しかし、私はその手は苦手な話になるので、それには触れていない。ホロンは人間と同じだとソウタは述べているが、これは、「ホロンには感情がある」とする説で引用されているが、ホロンは〔対応パターンや認知行動パターンが増えた〕のと〔独自の嗜好獲得した〕状態であって、私は「〜のように見えるだけ」だと私は考える。

 〔感情〕と認識されるにあたる部分は、〔自我〕にあたる〔利己的本能〕にあるんじゃないかな…と思う。

 逆に、どこかの大学で認知発達する人工知能ロボットを研究されている野を覚えているが、確か2000年の状態で3歳児と同等の知能を獲得していて、幼児のそれと同じく振舞う。今後は多くの協力者のデータ提供を頼んで発達させる予定だといっていたが、それに必要なデータとは気が遠くなるほどの労働力を要する。現在では5歳児の知能までは発達しただろうか…?

 生物では、遺伝子に記憶されながら、遺伝子を伝え、環境の中で生きていきながらデータが遺伝子記録されていく。同時に生体構造も環境に対応できるように日々進化したり後退したりする。

 その大差は、原材料が、有機物であるか無機物であるかの違いだけで、ただ単に、物理で成り立って形成されたものに過ぎず、我々人間が考えるほど生物というものは、掲げ挙げるほど超越した存在ではなく、ビッグバンで生み出されたものの小さな物質で組み立てられ形成されたものに過ぎないのだろうと思う。

 そうすると、必然的に出てくるのが、ホーキング博士が著書で述べていた「人間原理の重要性はどうなるんだ?」というパラドックスが生じるが、私的な知見では、人間原理は存在しても、宇宙進化や生物進化といった、宇宙スケールや地球環境スケール重要でないと考えられる。その原理は、ある原子の熱力学と同じようなものに過ぎないのじゃないかと考えているからだ。

 そこを考えると、我々人類より、野生生物のほうが、何千倍も賢く、随分と苛酷な環境でも対応しながら生き続けている。現実を受け止めて対応する能力は野生生物(特に植物)が長けており、清貧かつエレガントに生きていると思う。

 個人的には、水とか、原子とか、…そういった無機物の方を好んでいる。いわば、この人体さえ形成する小さな材料で、それより小さな粒子や素粒子といったもので、肉体が滅びれば、地球環境や宇宙に還る物質にあたる。その世界には、人を固執させる「生」の概念がないからにあるからで、物理に根ざしている事にあるからにある。

 そもそも生物は、厳しい環境に生きていけるように遺伝子上では元から利己的に動くよう強く設計されてあるから、人を固執させる「生」の概念にも強く反映されている。「生」に関する概念のその多くは悪い方向へ流れる事が多い。 − これが人を苦しめる原因となることが多く、生命倫理を犯す原因ともなることも多い。多くの人々は固定観念や道徳といったものに惑わされ、物理的な矛盾に気がつくこともない。

 だから、ついつい好んでしまう、無機物の世界。物理に根ざしているものは極めて無常だが、宇宙構成や地球環境のシステムを考えると、極論で言えば、とても優しいものかもしれない。

posted by 0≠素子 at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | paradigm | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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